昭和の日に想いを馳せる
昭和の日に想いを馳せる
― 効率主義の危うさについて ―
昭和の日に、少しだけ立ち止まって考える。
いま、街を走る車を見ていると、ふと違和感を覚える。
どのメーカーの車も、どこか似ている。
特にSUV車は花盛り、海外の車を含めて、輪郭も、ボリュームも、佇まいも、ほとんど同じだ。
エンブレムを外せば、もう見分けがつかない。
だが、昭和――
50年代、60年代の車は違った。
各社がそれぞれのデザイナーを抱え、思想をぶつけ、
時には無駄とも言える造形を恐れず、
一台一台に「夢」があった。
なぜ、こうなったのか。
理由は単純である。
価値の軸が、「性能」に一本化されたからだ。
燃費性能。
空気抵抗性能。
安全性能。
それ自体は、否定すべきものではない。
むしろ、当然求められるべき進化だと思う。
だが、それだけを突き詰めるとどうなるか。
答えはひとつ。
最適解に収束する。
空気抵抗を減らし、効率を高め、規格を満たす。
その条件のもとで設計すれば、形は自然と似てくる。
違いは削ぎ落とされ、
個性ではなく「誤差」として処理されていく。
これは、住宅でも同じ。
気密性能。
断熱性能。
耐震性能。
いまの家づくりも、これらの数値性能を中心に回っている。
もちろん重要であろう。
ここを外す設計は論外であろう。
だが、ここに価値を集中させすぎると、
家は次第に「閉じていく」。
窓は小さくなる。
開口部は減る。
外との関係は遮断される。
結果として生まれるのは、
息苦しい、どこに建っても同じように見える家である。
街を見渡せば、均質な外観の連続。
特に団地や分譲地では、その傾向が際立つ。
性能を追い求めた結果、
風景が失われていく。
これは皮肉な話であろう。
本来、性能とは「暮らしを良くするための手段」のはずだった。
だがいつの間にか、
性能そのものが目的にすり替わっている。
数値はわかりやすい。
比較もしやすい。
説明もしやすい。
だから、そこに頼る。
だが、数値で測れるものだけを価値とすると、
測れないものは切り捨てられる。
光の入り方。
風の抜け方。
素材の経年。
外との距離感。
人の気配。
こうしたものは、数字にはならない。
だが、確実に「暮らしの質」を左右する。
昭和のものづくりは、
この“測れない領域”を、当たり前のように扱っていた。
非効率も、無駄も、個性も、
すべてを含めて「価値」としていた。
だからこそ、違いがあり、
だからこそ、記憶に残った。
効率主義は、強い。
だが、それだけでは世界は痩せる。
大事なのは、バランスではない。
どこに軸を置くかだ。
性能を土台にしながらも、
その上に「人の感覚」を乗せること。
数値に現れないものを、
あえて設計に残すこと。
そこにしか、
時間に耐える家は生まれない。
昭和の日に思う。
進化とは、削ることではなく、
残すべきものを見極めることと思う。

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