LED 効率主義の功罪
LED 効率主義の功罪
毎朝、まだ町内が目を覚ます前の時間に、愛犬と歩く。
四時を過ぎた頃の空気は澄んでいて、余計なものが削ぎ落とされている。
そんな時間に気づいたことがある。
カーブに差し掛かったとき、ガードレールに付いた赤い警告灯がふっと視界に入る。
しかし、それは「その場、角度に来て初めて」見える光だった。
遠くから、やわらかく存在を知らせるような灯りではない。
最近の信号機も同じで、横からは色が見えない。
正面に立ったときだけ、鋭くこちらを射抜く。
おそらくLEDの特性なのだろう。
光は広がらず、直線的に、狙いを定めたように投げられる。
無駄がない。効率的で安全で合理的。
必要な方向に、必要なだけ届ける――そういう設計であろう。
公共の標識に関しては理にかなっている。
だが、その光には「余白」がない。
昔の灯りは違った。
白熱灯の裸電球はもとより
蛍光灯でさえ、どこか申し訳なさそうに、じんわりと周囲を照らしていた。
自動販売機の明かりも、夜の街に溶け込むようにあった。
用は足りていて、押しつけがましくはなかった。
この機会に今の自動販売機に物を申したい。
LEDが、まるで主張するかのように光る。
そこにあることを、強く、鋭く、暴力的に伝えようとする。
確かに効率はいい。
電力も少なく、寿命も長い。
合理的で、非の打ちどころはない。
だが――
少し手前から、なんとなく申し訳なさそうにぼんやりと存在が滲む。
完全には見えないが、そこにあるとわかる。
そういう「控えめな部分」が、くつろぎや豊かさをつくっていたのではないか。
効率とは、無駄を削ること。
反対にその無駄の中にこそ、人間らしさがあった。
光ひとつ取っても、時代の考え方は隠せない。
まっすぐで、強くて、効率的な光。
それはまるで、今の社会そのもの。
けれど、家づくりにおいてはこだわりたい。
効率主義には陥らない。
光も、風も、気配も、少し滲ませる。
そうして初めて、暮らしは落ち着く。
効率だけでは、心は満たされない。
暮らしの光は、照らすためだけにあるのではない。
人々のくつろぎを満たすためにある。
そう思う。

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