「屋にはいいものがある。」
「屋にはいいものがある。」
最近、あらためて思う。“屋”には、いいものがある。
行きつけの肉屋には、そこでしか手に入らない特別にうまい肉がある。
あの魚屋には、小料理屋が買いに来るその日に入った刺身がある。
通りの八百屋には、季節をそのまま持ってきたような野菜がある。
婆さんのやっているお茶屋には、昔ながらの量り売りの新鮮な茶葉があり、
あの親父のいる焙煎屋には、流行りに流されない味がある。
近くの本屋には、店主の癖が並び、
商店街の酒屋には、物語ごと店主が現地で仕入れてきた酒がある。
そして——
樹木の成長を見つめる代々と続く植木屋、
指が曲がりながらも何十年も刃を研ぎ続ける刃物屋、
手入れが必要となる建具屋の調整技術。
全国から修理品が集まるオーディオの修理屋、
無理難題を解決してくれる洋服の直し屋。
ソールを張り替え何十年も身につける靴や時計の修理屋。
“直し屋”たちは、時間を捨てない。
壊れたら終わりじゃない。手を入れて、また使う。
古くなることを、否定しない。むしろ、そこに愛情や価値を見ている。
そこには、ひとつの共通点がある。“人が営んでいる”ということ。
効率ではない。目利き。データではない。経験。
だから、“屋”にはいいものがある。
今、家は“商品”になりすぎた。カタログがあり、価格があり、どこで建てても、似たような形になる。
だが、本来——家は、そういうものではない。
家は、時間を受け止める器。人が暮らし、歳を重ね、記憶が積み重なっていく場所。
だからこそ、“屋”でなければならない。
遅ればせながら、我々は材木屋でもあり設計屋でもある。
材木を選ぶ目。時間と暮らしを読む設計。手で納める職人の仕事。直し続ける責任。
そのすべてに、人の意思や判断が入っているかどうか。
そこが、決定的な違いになる。
いい家は、つくろうとしても、つくれない。
本当にいいものを知っている者にしか、つくれない。
いい木や材料を知り、いい納まりを知り、いい設計——
つまり、いい時間の流れ方を知っているかどうか。
それが、そのまま家になる。だから、思う。“屋”であれと。
効率や規格に寄せたり、目利きを捨てるのではなく
人の仕事を、機械に渡すべきではない。
不揃いでもいい。手間がかかってもいい。
その代わり——
時間に耐える建物を。
“屋”には、いいものがある。

092-942-2745