暮らしのあちこちに貼られた「免罪符」。
暮らしのあちこちに貼られた「免罪符」。
気づけば、それは家の“顔(玄関ドア)”にまで貼られていた。
美しいはずの空間に忍び込むノイズに、静かに一石を投じたい。
建築にノイズが忍び込んだのは、いつからだったろうか。
調べてみるとそれは1995年(平成7年)7月1日
忌まわしき日。
■ 警告の館になってしまった家
家を建てるというのは、
“暮らし”をつくるということだ。
それがいつの間にか、
玄関ドアに、ペタ。
サッシに、ペタ。
キッチンに、風呂に、洗面に、便器に、照明に。
とにかくペタペタ貼られている。
気づけば、その家は「警告の館」になっていた。
──ここは危ないですよ。
──これはダメですよ。
──触るとこうなりますよ。
──いうことを聞かないと責任は取れませんよ。
朝、顔を洗う時。
夜、灯りを点ける時。
何かにつけて“ダメ”の文字が目に入る。
美しい設計デザインも、
丁寧な大工の手仕事も、
あのペタペタの前では、無力だ。
■ 「消費者保護」から始まる注意喚起。しかしながら仕方がない。
PL法というものがある。
製造物責任法。
万が一の事故に備え、注意喚起を……という理屈はわかる。
ただし、である。
そもそも、あのシールは建築の現場で貼ったものではない。
設備が生産され、倉庫に運ばれ、現場に届いた時点で、
すでに貼られている。
つまり、
貼るための責任ではなく、貼っておくことで責任を回避する。
この国の建築資材に、当たり前のように染み込んでしまっているのだ。
「安心の形」をしてはいるが、
その正体は、“疑い”である。
「暮らす人を信じない」「責任を回避したい」ことから始まった警告だ。
■ 剥がすことで、建築が息を吹き返す
私が好きな建築には、気配がある。
佇まいがある。
そこに「信じられた空気」がある。
だが、いまの住宅にはそれがない。
ペタペタと貼られたシールが、気配をすべて壊してしまう。
ならば、剥がしてしまえばいい。ただし──自己責任で。
アルミサッシのあのシール、お酢で剥がせる。
少し湿らせて、ラップして、10分待つ。
浮いてきたら、そっと剥がす。
専用のシール剥がしを使ってもいい。
やってみれば簡単だ。
驚くほど、景色が変わる。
剥がしたあとのその空間は、
「建築」が本来の顔で、こちらを見ている。
それは、職人が込めた静かな魂かもしれない。
設計者の苦心かもしれない。
■ 暮らしは、貼られるものではなく、沁みていくもの
家は、禁止と警告に囲まれる場所ではない。
信頼と、自由と、ほんの少しの無防備さがある場所でいい。
そういう空気のなかで、
笑ったり、泣いたり、誰かを想ったりすればいいのだ。
暮らしとは、
貼られるものではなく、沁みていくものだと思う。
■ 最後に、静かに問いたい
あなたが建てたその家に、本当に必要なのは──
工場で貼られ、倉庫で眠り、現場に届くまで守られたその「警告のラベル」だったのだろうか。
玄関ドア、サッシ、お風呂、キッチン、洗面、トイレ、照明。
所狭しと貼られた“注意書き”に囲まれた家で、
本当に、心が落ち着くであろうか。
文 長崎秀人(株式会社長崎材木店 一級建築士事務所 代表)
【補足】PL法(製造物責任法)について
1995年(平成7年)7月1日に施行されたPL法(製造物責任法)は、製造物に欠陥があった場合に、メーカーの「過失」を問わず損害賠償を認める「無過失責任」の制度。
PL法は、大量消費時代、消費者の権利を守るために作られた法律。
しかし今、現場では“安心のため”という名のもとに、
「暮らしの美しさ」が失われつつあることも、また事実である。