「まだ動くか?」と聞かれるたびに、私はうなずく。
「まだ動くか?」と聞かれるたびに、私はうなずく。 ──
「最新じゃないけど、最高の相棒」──車に対して思うこと
家づくりと同じで、車選びにも“哲学”がいる。今日は少し、車の話でもしてみたい。
決して持ち物自慢の話ではない。
■ 角のある誠実さ──ボルボ240 1987年式
この車を初めて見たとき、「ああ、これは家に近いな」と思った。角ばったデザイン、素朴な内装、重たいドア。飾り気はない。でも、ちゃんと作ってある。
昨年、私の元に塗装もエンジンもボロボロの状態で転がり込んできた。60万円也。このままスクラップにするのは忍びない。
スウェーデンの冬を走り抜けるために生まれた車は、人の命と暮らしを守る“道具”として、徹底的に実直だ。「見た目」ではなく「思想」が作っている。そんな車だ。
北欧の四角いやつだ。見た目は地味だが、妙に落ち着く。雨の日も雪の日も、無言で守ってくれるような安心感がある。どこか、昔の大工の背中に似ている。
■ ドイツの職人魂──メルセデス W123D 1984年式
メルセデス・ベンツのW123。いわゆる“質実剛健”という言葉がこれほど似合う車はない。
こちらは20年前に手に入れた本妻である。
この車には、今のメルセデスにはない“間”がある。走り出しのゆったりした加速、ドアを閉めたときの深い音。まるで、古い木製建具のような心地よさだ。便利さではない。“心に残る使い心地”がある。
背筋を伸ばさせてくれる車だ。機械として、完成されている。だが、どこか余白がある。余裕というやつだ。余白のある人間に、私もなりたいものだ。
■ 無骨な働き者──2000年式 ダットサントラック
これは、相棒だ。無骨で、重たくて、燃費も悪い。だけど、何も言わずに荷を積んで走る。働く道具というのは、こうあるべきだ。
「まだ乗ってるんですか?」と笑う若いメーカーの営業マンに、ただうなずく。「ええ、まだ、ね」と。
■ 古いけど、信じられるもの
私がこの3台を手放さない理由は、「便利だから」ではなく「時間に耐えるものだから」だ。
スクラップなんてできやしない。
これは、家づくりにも通じる。新しい素材や技術がどれだけ出てきても、“時間に耐えるもの”には、やっぱりそれだけの理由がある。
ボルボも、メルセデスも、ダットサンも、どれも「手をかけた分だけ、応えてくれる」存在だ。
■ 終わりに
最新ではないけれど、愛すべき車たち。この静物と過ごす時間は、「物を大事にするとは何か」「手を入れるとは何か」、そんなことを、毎日のように問いかけてくれる。
今日もエンジンをかける。今どきの車のようにシュッとは動かない。でも、彼らは確かに、ブルンと今日もちゃんと走り出す。
この国では、車も家も「新しいこと」が評価される。燃費がいいだとか、自動運転だとか、性能は日々進化している。
でも、何年経っても手放せない車ってのがある。それは、ただ古いからじゃない。「この車と一緒に走ってきた時間や風景」が、心にちゃんと刻まれてるからだ。
古い車に乗るというのは、過去にすがることじゃない。「時間に耐えるもの」と一緒に生きる、ということだ。
エンジンのかかりが悪くなったら、整備する。部品がないと言われたら、探しに走る。それでもダメなら、仲間に頼む。そうして手をかけた分だけ、車は応えてくれる。
便利さや効率だけでは測れないものが、この世にはある。それは、車も、家も、人生も同じだ。
手間がかかるってのは、愛せるってことなんだ。忘れないでほしい。
若い人たちに、何かを強要するつもりはない。
ただ、こういう生き方もあるってことを、どこかで覚えていてくれたらいい。
「なんでそんな古いのに乗ってるんですか?」と聞かれたとき、たまにはこう答えてやってもいい。
「私は、信用できるものとしか、長く付き合わないんだ」ってね。